カトリック川柳

写真付きの福音川柳を学ぶ

車検とかけて信仰と解く、その心は(なぞなぞ)

 クルマの三回目の車検が近づいたので、クルマの安全装備を色々調べ始めた。私ももう年なので今更、最高速度がどうのとかトルクがいくつだとかということには関心はない。燃費がよいとか荷物がたくさん積めるとかにも興味は無い。だが安全装置だけは最近急速に進化しつつあるようで、新車にするならこれを判断基準にしたい。

 暑い夏は三角窓から冷気を取り入れるものと思っていたらいつのまにかエアコンがつくようになった。サイドミラーは気がついたらボンネットではなくドアについていた。ワイパーはなんと間歇で動くようになっていた。今のクルマは前輪駆動があたりまえで、雪の日のタイヤチェーンは後ろのタイヤにつけてはダメだという。かって自分でプラグを一生懸命磨いていたが今は10万キロは掃除しなくともよいのだという。ふと時代が変わったことに気がついた。
 半分冗談だが、自分の信仰も時代遅れになっているのかもしれない。クルマの安全装置になぞらえてなぞなぞを作ってみた。カト研の神父様方からは、ちょっと冒涜的なのではと叱られるのを承知で少し考えてみた。

 クルマの安全装置といえば、ABSかESCくらいしか知らなかったが、今のクルマの安全装備には色々あるらしい。

 まずシフトがマニュアルかオートマかだ。私もある時までマニュアルに固執していたが、いつのまにかオートマになっていた。信仰で言えば、以前はあれこれ神学の勉強をしていたが、今は日曜日にごミサに行けばいいやと、まるでオートマ運転だ。オートマは楽ちんで安全この上ないが、たまにはレンタカーでマニュアルも運転してみたい。
 安全第一なら免許返納が一番だが、洗礼返納はできない。ペーパードライバーは危険この上ない。やはり安全装備が必要だ。

 安全装備の第一は衝突防止装置らしい。自動ブレーキとも言うらしい。あるスピード以下なら、衝突を察知して止まってくれるという。教会で言えば破門警告みたいなものか。あるところまでは好き勝手なことを言っても許されるが、最後の最後はここから先はダメと止めてくれる。

 飛び出し衝突被害軽減装置というものもあるらしい。たとえば子どもが横断歩道で飛び出してきららクルマが止まってくれるという。告解みたいだ。あるところでストップさせてくれる。しかも最近は障害物があっても(たとえば隣にクルマが止まっていても)飛び出し衝突を防いでくれるという。赦しの秘跡というかマリア様10回みたいなものかもしれない。

 車線逸脱防止装置というか車線維持装置みたいなものもあるらしい。センターラインを超えそうになると自動で元に戻してくれるという。隣の車線に入っての正面衝突を防いでくれる。ありがたいことだ。ごミサの説教を思い起こさせるがどうだろう。忙しくて黙想会もでられないし、お祈りもできないが、せめてごミサの説教を聞くと自分の信仰を元に戻してくれるような気がする。

 驚いたのはACCだ。Adaptive cruise control のことらしい。自動車会社ごとに言い方は異なるらしいが、前を走る車や周囲の環境に合わせて自動的にアクセルやブレーキをコントロールする機能のことらしい。ACCとは一定のスピードで走ることだと思っていたが、今は意味が違うようだ。教会で言えば回勅や教令、勧告みたいなものか。教会も時代に合わせて変わらねばならない。何を守ったらよいのかは、何が変わってきているかを知らなければならない。高速道路をずっと同じスピードで走っているわけには行かない。街中ではなおさらだ。

 誤発進抑制装置というのもあるらしい。ブレーキとアクセルの踏み間違いを防ぐ装置のことなのであろう。あまりに信仰に熱心になりすぎて別の方向に行ってしまうのを防ぐというのなら、教会の入門講座や聖書講座も同じような機能を果たしているのかもしれない。今はアクセル一つで加速も停止もできるクルマがあるという。ロザリオみたいなものだろうか。

 などなど各社のクルマの安全装備を比較しながら思ったのは、自分の信仰は今運転している車とおなじで安全装備はあまりついていないことだ。私はお聖堂では片膝をつくが、特に意味があるわけではなくなんとなく昔からそうしてきているからそうしているだけなのだが、何か意味があるようにとられて貶されたりする。誉められたことはない。別にご聖体を口をいただくわけではないし、ごミサの最中に聖変化で跪いたりはしない(そもそも跪き台がない)。それでもあれこれ言われるのだから私は古いのであろう。クルマとおなじで時代遅れになっているのかもしれない。
 などとあれこれ考えている内にもうすぐ車検だ。これではクルマの買い換えは無理だ。車検を取って古いクルマを乗り続けるしかあるまい。

車検とかけて信仰と解く、その心は,装備不足。

これは推敲不足か。